ヤフーアカデミア合宿「被災地から創る未来 ~Change Makerになる~」2日目

こんにちは、Natsumiです。

昨日に引きつづいて、宮城・石巻からブログを書いています。

昨日はヤフーアカデミア合宿の2日目でしたので、3名のリーダーのお話、そこから得た気づき、ワークショップの内容をまとめます。

ヤフーアカデミアとはなに?なぜ石巻なのか?というかたは、こちらの昨日のブログを読んでいただきたいです。

ヤフーアカデミア合宿「被災地から創る未来 ~Change Makerになる~」1日目

2日目のプログラム

2日目(12/4火)~1日目からのつづき~

「復興のトップランナー」と言われている女川町を代表する、3名のリーダーにお話をお伺いする。そしてワークショップでこれからの未来、私たちが何をするべきか?を考える。

・コンテンツ(2)
「企業は何のために存在しているのか 〜変化への覚悟・信念」
石巻日日新聞 代表取締役社長/コバルトーレ女川 代表 近江弘一氏(@女川フューチャーセンターCamass)

・コンテンツ(3)
「女川町の街づくりについて」
女川町長 須田善明氏(@女川町役場)

・コンテンツ(4)
「創っていく未来 ~これからの企業、これからの日本」
一般社団法人はまのね 亀山貴一氏 (@はまぐり堂)

・ヤフー石巻ベースにて、振り返りと共有のワークショップ Part2

近江さん「企業は何のために存在しているのか 〜変化への覚悟・信念」

お話をお伺いした方: 石巻日日新聞 代表取締役社長/コバルトーレ女川 代表 近江弘一

震災で新聞が発行できない究極の状況のなかで、手書きの壁新聞を発行するという手段で、情報発信をしつづけた「石巻日日新聞」の代表取締役社長の近江弘一さん。

そのときの記事は、こちらです。
震災当日の夜、真っ暗な新聞社で近江さんが考え抜いた「やるべきこと」

ちなみに、その時の壁新聞は、ニュース・ジャーナリズム博物の「ニュージアム」に永久保存されています。

震災という究極の状況のなかで、企業の使命をどのように果たしつづけたのか?また、そのあとの復興の過程で、企業経営者としてどのように大きく傷んだ企業を存続させてきたのか?などのお話を伺いました。
Q. なぜ、壁新聞をだそうと思ったですか?

「地域にある情報をどれだけ流せるか?」という企業の使命感で、それまでやってきた。

その日の晩に、考えたこと。
・私たちが、何をできるか?
・そのために営業部、報道部、制作部がなにをするか?
を書きだしていった。

わたしたちは“新聞” というセグメントではない。
“情報”を扱うんだ、であれば、どんな方法で情報をだしてもいいじゃないか、
紙だって書けばいいじゃないか、ということに気づいた。

・手で書いていたから、だれかが書き直してくれていた。
より正確な情報を集め、書いていたが、マグニチュード等あとから更新される情報もある。マグニチュードの情報や、橋が陥落しているという情報も、だれかが書き直してくれていた。“あたらしいコミュニティ”が、そこにできていた。

・どういう材料を書いていくかは、手帳に書き出した。
見出しは、希望が持てるものにする、中身は、いま起きていることを具体的に書く。(行政の情報更新、炊き出しの情報とか)
会社のまえに立って、来る人から情報を集めていたそうです。

・いちばん大変だったのは、ガレキばかりの道を越えて、貼りに行くこと。

・社員は、震災のことをキッカケに、自分たちの存在価値を知ったとのこと。

Q. 新聞社のまえにされていたことは?

ウェットスーツの会社経営(モビールテック、日本で生産No.1、海猿のスーツで有名)をしていたそうです。

「好きなことを仕事にしたい」と思ってやっていたが、47歳になったときに「生きざまを残せる事業をしたい」と思った。父の死がキッカケになった。結果として「社会への貢献」というところに行き着いた。

スキューバで若いひとを呼ぶコンテンツを作りたかった。

漁師さんは海を見せてくれないから、

なにか若い人がここに来る理由をつくりたい!
新しいエンターテイメントをつくりたい!

と思って、サッカーチームのコバルトーレ女川をはじめた。

(会社の株式を売って、資本金にした)
→ でも、収入がないので、日日新聞も始めることになる。
→ 実は、日日新聞は、財務が危ない状態だった。

Q. 厳しい財務状況をどう乗り越えたか?

「断捨離」をしていった。
日日新聞では、電話とFAXくらいしかない、メールも会社で1アカウントしかなかったが、テクノロジーで自動化できるところは見直し。使っていないものは、どんどん捨てていったとのこと。

「栄枯盛衰」
どんなに努力しても、社会が変わってしまうと生き残れない。変化するために、あたらしい仕組みをつくる必要がある。
新聞だけではビジネスはだめになる。高齢の人しか見なくなっている。
将来的になくなるので、あたらしい仕組みをつくり始めた。

・日日新聞における、新聞の購読料のビジネスの割合
震災前は95%。いまは50%になった。

残りはイベント、コバルトーレ女川との連携、施設利用料、生活情報誌など。

Q. 女川未来創造をはじめたキッカケは?

未来に向けた「あたらしいまちづくり」をしたかった。

女川町は「還暦以上は口出すな」という文化がある
30-40代が意見、手を出す。自分は当時50代だったので、若い人と還暦の中間。あたりまえの公民連携では、これからはむずかしい。税金が原資。お金の使いみちを可視化することが重要になる。緑地の公園、スタジアム。できるだけ民間に。次の世代にちゃんと渡したい。

・ネイティブアメリカンの考え方

“今”は子孫から預かっているもの。これからは、”今”を未来に返さなければいけない。勝手に堤防をつくるな。こういう考え方が、当たり前になってくれればいい。

Q. 自分が実現したいことと、お金を稼ぐことのバランスは?

原資をどう確保するか?は、重要である。

若い時は解決したら終わり、残らない。いまは、なんで解決できたか考える。
自分だけで解決しないことも多い。誰かとどこかでつながっている。

「緻密に大胆に」

ドアを開けるまでは知れるところまで知る。環境とか。
一度開けたら、大胆にいこう。

須田さん「女川町の街づくりについて」

「危機を好機へ ~復興のこれまでとこれから@女川町~」

つづいて、女川の街づくりの若きリーダー、女川町長の須田善明さんのお話を、9月に完成したばかりの新しい町役場庁舎で伺いました。

須田さんは、震災後に39歳の若さで町長に就き、ゼロから街を復興させる困難な状況にチャレンジされてきました。

須田さんにとっての復興とはなにか?まちづくりの改革をどのように進めてきたか?についてお話をお伺いしました。
女川町が「復興のトップランナー」と言われるのは、須田さんのビジョンと判断力が大きな要素だというのを実感しました。

Q. 復興ってなんですか?

さんざんこの質問を聞かれてきた。一人ひとりによって定義がちがう。
たとえば、家をなくしたひと、会社をなくしたひと、家族をなくしたひと、それぞれの想いがある、状況がある。
町としては、個々の積み上げをもとめられる。

女川の復興の本質はなんですか?を問いつづけた。
「そのプロセスを通じて、地方の可能性、新しい価値を生み出していくこと」という結論にいきついた。

Q.震災前と後で、女川町にどのような変化があったか?

震災後に変わったこと
・カップルが増えた
・キャリーバッグを引く人が増えた

前とはちがう層のお客様が来るようになった。

女川町は、「新都市建設とおなじ」と考えた。

復興のベクトルの根底にあったもの
・巨額の財源=全国民の負担
・復興後の町/住民のQOL(Quality of Life)
・復興はだれのためのものであるか?
これからずっと引き継がれていくもの

最初は「生き残ったひとの命のために何ができるか?」
そのあとは「経済、住環境をどうしていくか?」
最終的に「この復興は次の世代に向けられるべき」と考えるようになった。

持続可能性、効率性、利便性
→ どのように町をデザインしていくか?

Q. じゃあ、どのように町をデザインしていくか?

・コンセプト
「人口減少下でも活力を維持しつづけられる町」

人口は6,500人まで減った。
一次利用者でも、一施設が20万人 (例:学校であれば、生徒数 x 稼働日数)をめざす。

Q. 就任当初から言ってきたことは?

行政に対して:
「われわれに必要なのは悲壮感ではなく使命感である
復興に係るすべての主体がイコールパートナー」

若い職員に対して:
「面白がれ、それくらいでちょうどいい」

町民に対して:
「須田が創った町、じゃつまんないでしょ?」全員が関わることは難しい。
これについては、やれることからやる。まちづくりワーキンググループとデザイン会議をつみ重ねた。(2年で、30回以上)

「行政に頼るな」
「還暦以上は、口を出さない。未来がある若手がまちを作れ」

Q. ワーキンググループとデザイン会議をつみ重ねた結果は?

「口説ける水辺のあるまち 女川」にしたい!

「面白いまちは面白いやつにしか作れない」
「俺たちは東京の逆を行く」

・シャッター街にはしたくない!
いかにシャッターをおろさせないか?ということを考え続けた。

街が24%出資して、さきに出店する人を決める、必要なスペースを決めるというやり方にした。

エリアマネジメント
・動線をデザイン
・イベントもふくめてデザイン
・エリア全体の価値を高める

Q. まちづくりに必要なことは?

「まずはやってみる」ことが大事。

駅舎でのマルシェ、フラメンコ、ファッションショー、ダンスショー
サンマ収穫祭、ビアガーデン、盆踊り、花火大会など。
いろんな新しい試みをやってきた。

Q.みんながチャレンジしやすい環境をつくるには?
金銭よりも、ルールを変更して、みんなが使いやすい、チャレンジしやすい環境をつくること。最初の一歩はちいさく、歩幅をじょじょに広げていく。

・女川を「初日の出」みれる場所として、名所にしていきたい!
ちっちゃいけど、「洋風おせち」「300円のお雑煮」を作るなど、工夫した

今年は1,000人は来てくれた。

・女川のスタートアップも増えている
ギターのGLIDE
南三陸せっけん工房 → 地域の社会課題を解決したい
OCHACCO ハーブティーのお店

東京在住の起業家二人が、女川の地でなにかやろうね、とコラボレーションが生まれた。これが女川の可能性だと感じた

東京にくらべて、地方は多様性はすくなくても「偶発的にまじわる可能性」は高いと感じた。

「まずは、やってみる」
どうせやるなら前向きに、出来れば面白がって

「日本の未来を生む可能性」をここに。

さいごに、震災の2ヶ月後に女川の小学生が書いた手紙を、紹介いただきました。この言葉が、いまの須田さんのまちづくり改革の原点になっているとのことです。

亀山さん「創っていく未来 ~これからの企業、これからの日本」

お話をお伺いした方: 一般社団法人はまのね 亀山貴一氏

つづいて「Cafeはまぐり堂」を訪れました。

宮城県石巻市・牡鹿半島の小さな集落、蛤浜にある古民家を改修したCafeはまぐり堂

なぜ、Cafeはまぐり堂を始めたのか?それに賭ける想いとは?リーダーとして、経営者の亀山さんにお話をお伺いしました。

「起業、副業、関係人口でありたい姿を実現する」
「みなさん、どうありたいですか?」

自分は漁師 → 研究者 → 教員となった。

・そのとき蛤浜は、究極の過疎地
震災前:たったの9世帯しかない

集落が解散の危機をむかえる → ふるさとを残したい!という想いがうまれた。

「持続可能な浜をつくる」

自然とともに生き、家族のようなコミュニティをつくりたい!と思った。

・くらし、学び、産業の3本柱

人が集う場所にしたい。まず、どういう浜をつくりたいか、絵を描いた。
→ がれきの撤去のボランティアがでてきた。だんだんとその輪が広がった。
→ 結果、ひと夏でがれきの撤去ができた。

資金がなかったので、DIYで築100年の家をカフェに。
2013年3月11日にCafeはまぐり堂をオープンした。

集客は特にしていないが、オープン初日から50-60人が来てくれた。
いっしょに作ってくれていた人が何百人もいて、その人達が来てくれたとのこと。

浜にはいる道脇のツリーハウスは、糸井重里さんのサポートを得て作られた。

自然学校、イベント、結婚式など、いろいろやってきた。
なんと、1年で15,000人の交流、7年で7万人の交流につながっているそうです!

ただ、あまりに人が一気に増えすぎた、車も増えてしまった。
結果として、地域の皆さんに迷惑がかかってしまったとのこと。

その結果、「丁寧にじっくりやる」ことに方針転換した。
自分、チームの想いを大事にする。

「山を活かす」
切る、運ぶ、作るでサポーターが増えていった。

1.漁業の収益化
2.資源管理
3 漁業への関心、漁業を売る
→ 料理人むけの体験、エンターテイメント化

ワーケーション、イベント出店、直販や学生ボランティア、アート、ハーバードビジネススクール受け入れなど。

『ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか?』という本もでているようです。

1.環境整備
2.コミュニティ作り
をやっていく。

「復興の先をめざす」

自分たちが大切にしているもの
・人とのつながり
・ワクワク感 など

蛤浜を “ハートランド” にしたい。
“心のよりどころ、たくましく生きる日本人の暮らしぶり、ありのままの日本”

人と自然の循環づくり、半径100mのサステナビリティを実現する。

移住者の取り合い → 多拠点化にしていきたい

・交流人口から関係人口へ

・クリエイティブな人材の育成
0 → 1 (新たな価値を生み出すこと)ができる人が必要になる。

・起業塾をはじめた

蛤浜でチャレンジする人
蛤浜で学び、他でチャレンジする人
の2パターンがでてきている。

企業が統合されるときに「6つの資本」という考え方がある。

企業として重要なのは、財務だけではない。
財務、製造、知的、人的、社会・関係、自然の6つの資本がある。
この意識が重要になる。

・年収3分の1になったけど、幸福度は3倍?

神戸大学システムイノベーションセンターの「幸福度」についての研究結果より

国内2万人へのアンケート結果で「所得、学歴」よりも「自己決定」が、幸福感に強い影響をあたえる。

・蛤浜を「オープン」に、「人の流れ」をつくる

ありたい姿の実現 = 幸せ である。

余白はつねに作っておきたい。
ゴールを決めすぎない、何をやるか?ではなく誰とやるか?を重要にしている。メンバーに事業計画をたててもらう。
ないものねだりではなく、あるものに気づいていく、目を向ける。

ヤフー石巻ベースにて、振り返りと共有のワークショップ

1) 3名のリーダーのお話を聞いて、どんな気付きを得たか?

・3名に共通する「使命感」

震災をきっかけに、死を意識した。
死生観 → 自分はどうあるべきか? → 使命感

・使命感とは? = 役割を演じること

自分を犠牲にすることではない、楽しむことも必要。

・一見、両立することが難しいことを両立している。

死の意識 ⇔ 生きる
未来に対する不確実性 ⇔ 持続可能性
「自分の軸をもつ」 ⇔ 「任せる」

・未来に目を向ける
復興は、未来のもの
次世代に向けてなにができるか?を考えている

・じゃあ、私たちが都心で同じような「使命感」をもつにはどうすればいいか?

1. 死を意識する (自分への問いが必要?)
2. 生きるというのを意識する
3. 役割を意識する

イベント(事件)があって気づくこと、日々の小さいこと(振り返り)で気づくことが重要。

2) われわれは、どういう未来を創るか?

・世界はあっという間に変わる

2005年と2013年のバチカンのちがい

みんなでテーマを出し、チームにわかれて話す

わたしは「女性が活躍できる社会にしたい!」というテーマでディスカッションしました。

それ以外のテーマは、こちらです。
「地元を誇れる人を増やしたい!」
「一人ひとりが活躍できる日本にしたい!世界に負けない日本、AIとの共存」
「競争のない社会をつくりたい!」
「労働時間を少なくしたい、生産性をあげたい、幸せな働き方をめざすには?」

最後に学長の伊藤羊一さんから、まとめがありました。

もう景気循環では語れない。

労働の生産人口はさがっている。


世界人口予測:2050年、2100年

日本は今後人口が下がっていく、発言権が弱くなる。

そんななか、私たちは未来にむけて何をするべきか?
どんな、未来を創るか?

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