自分の「ナラティブ」を脇に置く

昨日は、こちらの本の読書会をしました。

『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』

日曜の朝6時からが、母親アップデートコミュニティの読書会タイム。

ぜんぜん頭が働かない時間だけど、朝の時間を有意義に、そして緊急じゃないけど重要なことをディスカッションできる大切な時間。

この本のテーマになっているのが、「わかりあえなさ」。

人は、言うまでもなく、人それぞれ「違う」。

何が違うか?

そこには、人それぞれの「ナラティブ」がある。

この「ナラティブ」に丁寧に向き合い、相手と対話を重ねながら、その「わかりあえなさ」に橋をかけていこう。

というのが本書のアプローチです。

一般的には、これをナラティブ・アプローチと呼ぶそうです。

「ナラティブ」とは何か?

「ナラティブ」は、日本語でシンプルに表現できないから、カタカナのままになっていると思います。

本書の中では、「ナラティブ」とは、物語、つまりその語りを生み出す「解釈の枠組み」のこと と定義されています。

この定義も、なんとなく分かるようで難しい。

その人の立場、経験、専門性、環境などから、解釈の枠組みは作られる。

全く話が噛み合わないなと思って、よくよく話を聞いてみると、「あー、そんな考え方もあるんだ」とびっくりすることがある。

それくらい、「ナラティブ」は人によって違う。

だからこそ、「わかりあえなさ」を前提にしましょう、というのがポイント。

「わかりあえる」というのが前提となると、

「なんで私の言うことを分かってくれないんだ」と感情が前面に出てしまい、冷静になれない。

相手も同じように、「なんで私の言うことを分かってくれないんだ」 と思っている状態でコミュニケーションすると、お互いの正義がぶつかりあってしまう。

自分の「ナラティブ」を脇に置く

いったん自分の「ナラティブ」を脇に置く。

この意識がすごく大切だなと思います。

本書で書かれていることを、ざっくりまとめると、このようなステップになる。

  1. 違い(溝)があることが前提
  2. 自分の「ナラティブ」を脇に置く
  3. 相手の立場になって、よく聴く(対話)
  4. 橋をかける(お互いの接点を生み出す)

自分の「ナラティブ」を脇に置くは、自分の意見を言わないことではない。

自分の「ナラティブ」を保留にして、相手の立場になってよく話を聴くこと。

これは、言うのは簡単だけど、やるのは難しい。

なぜなら、「自分は正しい。相手は間違っている」と思って、自分の正しさを主張したくなるし、相手を正そうと思ってしまうから。

これは、人間の本能的な欲求なのでしょうか。。

自分の「ナラティブ」を脇に置くのは、訓練を積み重ねて、自分なりの成功体験を身に着けていく必要があるな、と感じました。

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