『不登校の女子高生が日本トップクラスの同時通訳者になれた理由』

こんにちは、なつみっくすです。

今日は、こちらの本で感じたことをみなさんにお伝えしたく、書いています。

子供の不登校で悩んでいる方は多くなってきているし、「みんな同じ」を強要するような社会の空気に閉塞感を持っている人も多い。

そんな方々には、ぜひおすすめしたい本です。

あと「英語を学んでいるけど上達しない」と悩んでいる人にも、ヒントとなることが、いっぱい載っていました。

「みんな同じ」の学校教育に違和感を持って、「学校に行きたくない」と自分から言い出すのは、今の日本社会にとって必要なことだと思います。

今話題になっている『シン・ニホン』の本でも書かれていますが、「みんなと同じ」「前へならえ」の日本の教育では、マシン型の人間しか育たない。人口が減少し、 大量生産で物があふれ、 付加価値を生み出すのが難しくなった時代。一方で、AIなど新しいテクノロジーによって、変化を起こす力は大きくなっている。「みんなと違う」道を選べる人が、もっと出てくることで、日本の未来は創られる。

そんなことを1人の女性の具体例として、考えることができる本でした。

著者の田中慶子さんが、不登校になってから、どうやってダライ・ラマの通訳をするようなトップクラスの同時通訳者になれたのか?その生き様が書かれています。

「みんなと同じ」じゃなくて、自分に合った場所で、自分に合ったやり方で生きていればいい

私の学生時代を振り返ると、そんなに校則も厳しくなかったし、あまり疑問を持たずに、「みんなと同じ」生活ができていた。

それが嫌だと感じて、自分の嫌だと思う気持ちを、親とかに伝えて、自分の意志を貫ける人に、私は嫉妬するくらい、うらやましい。

日本の学校に行きたくないと思い、海外留学をしたり、NPOのプログラムに参加したり、その1つひとつは思いつきに見えるかもしれないけど、流れに見を任せつつ、自分のキャリアを切り拓いている。

これは、キャリアを1つひとつ積み重ねていく「山登り型」ではなく流れに身を任せる「川下り型」 のキャリアと感じました。

この中には、たくさんの人との出会いがあって、人に頼り、その人のアドバイスを素直に聞いて、自分の行動に活かしていく。

「無計画で思いつきでくだした決断こそ、大きな転機になっている」と書かれていました。

私からしたら、「不登校」は意志が強くてすばらしいと思うけど、「みんなと同じ」が良しとされる空気がある日本では、生きづらさを感じてしまう人もいる。コンプレックスを抱える人もいる。

「おわりに」に書かれていた言葉が印象的でした。

「みんなと同じ」ができないことにずっとコンプレックスを持っていた。不登校で学校にも行けず、普通の人が普通にできることができないダメな自分を私は大人になってからも、ずっと抱えて生きてきたことに気づいた。 「みんなと同じ」じゃなくても、自分に合った場所で、自分に合ったやり方で生きていればいいということを、誰よりも私自身が認めていなかった。

『不登校の女子高生が日本トップクラスの同時通訳者になれた理由』より

そして、このような慶子さんを、「自分らしく、楽しく過ごせばいい」と、いつも信じて見ていたご両親の存在は大きい。

ここは、子供を持つ親の立場からして、グッと来る所でした。

日本とアメリカの教育の違い

日本とアメリカの教育の違いも書かれていて、興味深い。これはどちらにも良さがあると思いますが、日本になくて、アメリカの教育にあるものが、これからの日本に必要だなと感じました。

日本の学校の勉強は「知識をつけるため」であるのに対して、アメリカでは「考える力」をつけるためのものだったとのこと。

たとえば、歴史の授業は年号を覚えるための暗記科目ではなく、過去の出来事をさまざまな視点から見ることで、「 現在」や「これから」に活かすことが目的。

「アメリカ大陸を発見したコロンブスは英雄か」それとも「その後の先住民弾圧のきっかけをつくった犯罪者か」などというディスカッションを延々とする。

絶対的な正解がない中で、さまざまな視点からひとつの出来事を理解し、自分なりの考えを持ち、それを表現する能力をつちかうことが学ぶということなのだ。

『不登校の女子高生が日本トップクラスの同時通訳者になれた理由』より

この話は、すごく興味深くて、思わずイラストを描きました。

私は「暗記」は得意な方だったのですが、今となっては、覚えた年号は全部忘れているし、正直言って今使う機会は全く無い。

もし必要になったとしても、今となっては、ネットで検索すれば、すぐに年号を調べられる。

英語の「正しさ」へのこだわりは要らない。「伝わること」が大切。

英語についても同じで、文法などの「正解」を叩き込まれる。

そうではなく「何を伝えたいか?」という目的があって、言語という手段があるのに、自分の考えを英語で話す機会は、ほとんどなかった。

私も、英語を話すときに、「文法が間違っていないか?」「発音が変じゃないか?」と、言葉がなかなか出ない経験は、日常茶飯事です。

英語は「正しくあるべきもの」ではない。コミュニケーションのツールだ。自分の想いや考えを伝えるためのものだ。「正しさ」へのこだわりを手放すことで、「学んだ英語」を「使える英語」にすれば、日本人の英語力は格段にあがるような気がしてならないのだ。

『不登校の女子高生が日本トップクラスの同時通訳者になれた理由』より

これは、私も自分で感じた経験がある。

多国籍、多業種の人が集まり、ビジネスプロジェクトをするプログラムがあって、それに参加した時だ。

私のグループは7名。ネイティブスピーカーもいるし、みんな英語がペラペラだし、留学経験もない私は、みんなが何の躊躇もなく英語でどんどん意見を交わすところに入っていけなかった。

プロジェクトが終盤に差し掛かるときに、ちゃぶ台返しのように、意見が割れて、それまで積み上げていたものが白紙となって、私はメンバーの前で、悔しくて号泣した。たしかその翌日だったと思う。私は、自分が伝えたいと思うことを資料にまとめて、震えるような感じで、みんなの前でプレゼンした。この時は、いつものように「英語を正しく使いたい」という邪念が全くなく、ただただ自分の考えを伝えたい一心だった。

すごく尊敬していたアドバイザーの方が、この時のことを、すごく褒めてくれたのが、うれしかったし、メンバーに思いが伝わって、プロジェクトが前に進んだ。私の唯一と言っていいほどの、英語で思いを伝えた経験だ。

このときの大切な経験を、この本で思い出すことができました。

英語は、何のために学ぶのか? どうやって学ぶのか? のヒントも、参考になります。

ありがとうございました。

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